「何者」かになることから一歩引いたらSNSは日常の「メタ」になった
いつもならペロッとブクマして軽くコメントを付けて終わりにするところだけど、今日は気分を変えて思ったことをあえてブログに投下してみることにした。そんな気分。
まず、元増田について思うこと。
「自分は何者でもないことを肯定できるようになった」
やっぱり一番目を引いたのはこの項目。
結局のところまず「何者かになりたい自分」がいて、他の項目はそれに付随した問題ってことだよね。
この「何者かになりたい」気持ちってすごくよくわかる。SNSをやってる人間にはついて周りがちな欲求だ。そりゃあわたしだってなれるなら「何者」になりたい。でも皮肉なもんで「何者かになりたい」と漠然と思ってる間はなれないんだよなぁ。「何者」でもないわたしがこんなこと言っても説得力ないけど(笑)そんな気がする。もちろん戦略的に「何者」になってしまう稀有な人も世の中にはいますけど。
「何者」になるためにTwitterやってたらそりゃあ疲れるよなぁ。やめたくなるよなぁ。やめれば開放されるよなぁ。
思ったことはだいたいこんな感じ。
んで、先の増田を踏まえてraf00さんのエントリ。
「Twitterやめなかったら起きていること」と「何者かになるコスト」 — 乱れなよ、そして召されなよ
さすが、と言えるほどraf00さんのことをわたしが理解しているかは不安ですが非常に「さすがだなぁ」と思うわけであります。今のわたしだから思う「なるほどなぁ」って。
raf00さんの話って「何者かになりたい人間」側からしたら達観してる感があって、この境地って「何者」になりたかった人が壁にぶち当たってあれこれ考えた末にたどり着ける場所なんじゃないかって気がします。実際わたしはそう思います。
SNSという言葉が一般的になる以前、ブログ黎明期から恥ずかしながら「何者かになりたい自分」を振り回してたわたしも元増田のように壁にぶち当たったことが過去にありました。悶々とする日々もありました。今でもしばしば悶々ともします。そんなわたしではありますが、TwitterをはじめとするSNSを今も続けています。どうして続けられているかというとやはり「何者かになる」ということから一歩引いたからなのかもしれない。
「一歩引いた」瞬間、SNSはわたしにとって、「対誰か」ではなく「対わたし」になった。
時々でわたしから出てくるものを記録するもの。それすなわちわたしの中身という見えないものを可視化し補足する「メタ」であります。
以来わたしはSNSは日常の「メタ」だと思うようになりました。
そう思って自分から出たものを俯瞰してみるとなかなか面白い。それなりに長いこと続けてると「あぁ、わたしはこういう感じの人間か」なんてのも見えたりする。
そこまでくると「何者病」で疲れた心もいささか癒えて「じゃあ見えてきたものでなんか勝負できることあるかな?」なんてこと考える余裕も多少出てきたりもするもんです。
っと、話がちょっととっちらかってきた。
えっと、つまりまとめると、SNSで「何者」になれなくてもそこに「自分」はいるわけで、それなりに続けてれば「自分」を観察するのも楽しい、と。「対誰か」だけがSNSじゃない。「対自分」もSNSだ。
そんな風に思うのです。