月がとっても蒼いからGO TO HEAVEN(HELL)【仮】

公開チラ裏のようなもの。自分語り上等

ナウな出来事に反応したいお年頃

TwitterのわたしのTLを眺めておりますと(直接投稿は休止してるけど結構見てる)、はてな女子界隈に関する分析やら憶測が様々飛び交っていてなかなか興味深く、「こういうときまとめ力がある人なら事の顛末をサラっとまとめるんだろうなぁ」と思うと、自分の力不足を痛感することしきりであります。

そういう揉め事や炎上案件をまとめあげることの是非はさておき、ナウな出来事に即座に反応し行動できる瞬発力を身に付けたいところ。

さておき、はてなも「はてな女子」と新機軸を打ちたてたいならそれに該当する筆者に対するバックアップがあってもいいよな気もする。はてブのトップを見たところ「はてな女子」という項目はあるものの、3つほどエントリが出てるだけで深堀できないし。中途半端に露出しちゃただの晒し上げじゃん。そもそも「はてな女子」がどこ発信の話なのかもわたしはよく知りませんが。

とか考えた16時前。

ブログの負けを取り返したいひと

近頃「ブログ疲れた」的なエントリを散見して思う。

「だったら休めば良いじゃん」

でも疲れたってことをエントリにしてしまうことから考えるに、ブコメあたりで叩かれたことに対してどうにかこうにか評価を逆転させたいって心理もあるのかもしれない。

そうなってくるとどこか負けを取り返そうと躍起になるギャンブラーの姿ともダブって見えたりもするわけで、なおさら「PCの電源切って外の空気でも吸っていらっしゃい」と言いたい気分にもなる。(ってわたしは何様か)

Twitterをしばし休んでみる

しばらくTwitterを休止してみる。

Twitterというのはその瞬間瞬間で思ったことを切り出すには非常に有用なツールなのだが、その手軽さゆえになかなか推敲するところまで気が回らないのがわたしの実際だ。そんなTwitterであるから自然、勢いでツイートすることが主となる。そうなるとどうも「手クセ」のようなもので自分の吐き出したいことを済ませてしまうことが多くなる。この「手クセ」というものに正直わたし自身が飽きてしまっている。そこでちょっと気分転換をしたいと思う。

前々からこのブログをもっと気軽に使いたいと思っていた。一般的なブログエントリの文字数よりも少なくて、かつTwitterのPostのMax文字数よりいくらか多い文字数のエントリを気張らず書くイメージ。

何かを思いついた時は、これまでのようにパッとツイートしておしまいとしてしまうのではなく、んっと一息飲んで少しこねてブログに落とし込む。

長文でなくてもブログならではのおもしろさは感じられるし、あまり内容に凝りすぎなければ筆不精になることもないかなぁと思う。

まぁ、ブログへと書く場所を変えたところで当然「手クセ」なるものは出てくるだろうけどね。

また、現状では「僻地」のようなこのブログはPVなんて微々たるものだから多少の宣伝として更新のお知らせのツイートはしたいし、時にはリプライも飛ばしたいし、逆にリプライが来た時無視するのもあれだからレスもしたいから、まったくの「休止」というわけではないけれども。

それでもこうして目先を変えてみるのは刺激になるし試行錯誤もできるかな、と。

と、言うわけでひとまず2週間、来週再来週くらいはこの試みをやってみようと思った次第です。

はてな村に地殻変動の予兆

わたしの観測範囲に限ったことかもしれないが、近頃はてなの風潮に関してのdisだの評論?的なものが浮上していて、なにか地殻変動でも起きるんかいなと思っている。

ただそんなこんなはおそらく大多数の人にはどうでもよくて、井戸端会議の域を出ないのがまたはてなっぽいな、とか。

こういう雰囲気ってかつてもあった気が...と思い出してみると、新サービスが誕生した後って大体そんな感じだったかも。
ハイク然りうごメモ然り。今だと誕生から多少時間は経ったけどはてなブログがそれに当たるか。

そういえば今のニューウェーヴははてなブログ界隈から来てるなぁ、と古参ぶったことを考えていた。

はてなーをdisるはてな女子を巡る陰謀論

はてな女子という言葉を目にするようになってから、女性(おそらく。だって実際のところはわかんないし)のブログでいわゆる従来のイメージの「はてなー」がdisられるエントリが印象に残るようになった。

そこから「これはまさか、はてな社屋に招待された女性ニューウェーブはてなーが、はてな社から現状のはてな浄化のために従来のはてなーをdisるエントリを書くことを特命されたのでは!?」という陰謀論を妄想した。

「攻略法プレイ」の変移から課金プレイの未来をぼんやり考える

パズドラの新しいダンジョンの難易度が無理ゲーレベルらしいというツイートを横目に見つつ思ったことをひとつふたつ。

あ、本文に出てくるパズドラ用語の詳細説明については割愛でひとつ。

わたしもかれこれ500日オーバーのパズドラユーザーではあるが、いまだに「地獄級」やら「超地獄級」をほいほいクリアーできるほどのレベルには達していない。なので新しいダンジョンが登場した際はwikiやら某アプリ情報サイトなどのネットの攻略情報待ちになるのが常である。

傍らに攻略法を用意しながらゲームをするというプレイスタイルは今に始まったことではないが、ゲームオーバーのコストがスタミナ等の課金に順ずるところまで高まった今、「攻略法プレイ」の意味合いも少し変わってきたのかなという気がする。
ちょっと前まではゲームがあまりに高度かつボリュームが膨大になったためにその情報を網羅するために攻略法(本)を用意してプレイしたものだったけど、今や少しでも課金的コストを抑えるために情報を収集しているわけだから、やはりゲームの形が変わってきているのかなと思う。

この先のゲームの形ってどうなるのかな。

パッケージゲーはやはり廃れてしまうんだろか。

メーカーそれぞれのスタンスもあるだろうし急速にパッケージゲーが縮小することはないだろうけど、新しい枠組みのゲームは増えるのかもなぁ。新しい課金モデルのゲームとか。

自分が遊びたい範囲の分だけそのゲームにお金を払う。ひとつの大きな世界観(パッケージ)があって、その中から従量課金的にお金を払って楽しむ、的な。家庭用ゲームではすでにDLCとして似たようなシステムが定着しつつあるけどそれがもっと押し進められた形。ネットゲーム的ではなくパッケージゲームの切り売りというか。ユーザーのプレイスタイルやモチベーションに応じて支払う金額が違うゲームなんてのも将来的にはありえるのかな。

個人的には「売り切り」が安心できるけど、そういうメンタルは今後古くなっていくのかもしれませんねぇ。

「何者」かになることから一歩引いたらSNSは日常の「メタ」になった

いつもならペロッとブクマして軽くコメントを付けて終わりにするところだけど、今日は気分を変えて思ったことをあえてブログに投下してみることにした。そんな気分。

Twitterやめたら起きたこと

まず、元増田について思うこと。

「自分は何者でもないことを肯定できるようになった」

やっぱり一番目を引いたのはこの項目。

結局のところまず「何者かになりたい自分」がいて、他の項目はそれに付随した問題ってことだよね。

この「何者かになりたい」気持ちってすごくよくわかる。SNSをやってる人間にはついて周りがちな欲求だ。そりゃあわたしだってなれるなら「何者」になりたい。でも皮肉なもんで「何者かになりたい」と漠然と思ってる間はなれないんだよなぁ。「何者」でもないわたしがこんなこと言っても説得力ないけど(笑)そんな気がする。もちろん戦略的に「何者」になってしまう稀有な人も世の中にはいますけど。

「何者」になるためにTwitterやってたらそりゃあ疲れるよなぁ。やめたくなるよなぁ。やめれば開放されるよなぁ。

思ったことはだいたいこんな感じ。

んで、先の増田を踏まえてraf00さんのエントリ。

「Twitterやめなかったら起きていること」と「何者かになるコスト」 — 乱れなよ、そして召されなよ

さすが、と言えるほどraf00さんのことをわたしが理解しているかは不安ですが非常に「さすがだなぁ」と思うわけであります。今のわたしだから思う「なるほどなぁ」って。

raf00さんの話って「何者かになりたい人間」側からしたら達観してる感があって、この境地って「何者」になりたかった人が壁にぶち当たってあれこれ考えた末にたどり着ける場所なんじゃないかって気がします。実際わたしはそう思います。

SNSという言葉が一般的になる以前、ブログ黎明期から恥ずかしながら「何者かになりたい自分」を振り回してたわたしも元増田のように壁にぶち当たったことが過去にありました。悶々とする日々もありました。今でもしばしば悶々ともします。そんなわたしではありますが、TwitterをはじめとするSNSを今も続けています。どうして続けられているかというとやはり「何者かになる」ということから一歩引いたからなのかもしれない。

「一歩引いた」瞬間、SNSはわたしにとって、「対誰か」ではなく「対わたし」になった。

時々でわたしから出てくるものを記録するもの。それすなわちわたしの中身という見えないものを可視化し補足する「メタ」であります。

以来わたしはSNSは日常の「メタ」だと思うようになりました。
そう思って自分から出たものを俯瞰してみるとなかなか面白い。それなりに長いこと続けてると「あぁ、わたしはこういう感じの人間か」なんてのも見えたりする。

そこまでくると「何者病」で疲れた心もいささか癒えて「じゃあ見えてきたものでなんか勝負できることあるかな?」なんてこと考える余裕も多少出てきたりもするもんです。

っと、話がちょっととっちらかってきた。

えっと、つまりまとめると、SNSで「何者」になれなくてもそこに「自分」はいるわけで、それなりに続けてれば「自分」を観察するのも楽しい、と。「対誰か」だけがSNSじゃない。「対自分」もSNSだ。

そんな風に思うのです。